来自北東、昴宿星団

北東より来たれ、プレアデス

漫画と「急急如律令」

「急急如律令」とは?

こちらの頁を観ていただきたい。

f:id:pldb:20210809221617p:plain
漫画 伊藤 勢 原作 夢枕 獏『瀧夜叉姫 陰陽師絵草子 第二巻』株式会社KADOKAWA 2021(2021) p.118-119

人によっては聞き覚えのある言葉かもしれない。
「大漢和辭典」*1 では次の説明がある。

〖急急如律令
はやく律令のごとくせよといふこと。もと、漢代の公文書の用語であるが、後に巫者の咒語となり、速に退散せよの義に用ひられる。

p.1004

何やら含蓄のありそうな語彙である。

最近読んだ「〈術数文化〉という用語の可能性について」 *2 では興味深い記述がある。
本文自体が面白いため、少々長いが引用する。この記事の趣旨だけ知りたい方は一旦読み飛ばしていただいても構わない。

文化は、発生地とそれが伝わる周縁地では往々にしてズレが生じ、新たな側面を生み出すことが多い。そのことを、以前筆者が検討した呪符を題材に述べていこう。(13)
日本では古くから呪符が作成され、古代のそれは多く木簡として残されている。呪符そのものは中国に端を発し、半島を経由し日本に伝来してきたのだが、(14)日本の呪符木簡には、中国や半島などではほとんど見られないある特徴がある。それは「急々如律令」の語句である。この呪符(如律令)は後漢時にはすでに見られるが、(15)符図(符籙)とセットで呪符の中に見られるものはない。しかし、日本では八世紀後半から九世紀にかけての時期に、符図と「急々如律令」の語句が記される日本独自の形式が一般化し、以後もこの形式が踏襲されていくのである。
この特徴は古代のみならず中世以降で、新たに中国から伝来した呪符についても展開される。室町末期に吉田兼倶(一四三五~一五一一)によって打ち立てられた吉田神道には、重要なシンボルとして符印(『神祇道霊符印』)がある。吉田神道の符印は兼倶みずから制定したものであり、後世にまで強い影響力を与えたのだが、これら符印は実は道教経典『北斗本命延生真経註』巻五所載呪符と全く同じものであることが指摘されている。(16)ただし、この時は、符印には「急々如律令」が付されているのである。『神祇道霊符印』では見られなかった「急々如律令」が、本史料では見られるようになっており、ここに、新たに入ってきた中国直輸入の道蔵的呪符と日本的呪符との融合関係が確認できる。つまり、周辺地域における文化の新たな展開を認めることができるのである。

p.12

要は日本で流行した語彙なのだ。
中世以降に至っては、中国で廃れた(?)はずのこの言葉をあえて採用しているほどだ。
冒頭に挙げた安倍晴明の時代は「八世紀後半から九世紀にかけての時期」以降となる。程度は分からないが、「急急如律令」は広く知られていたのだろう。
こうなるといくつか気になってくる。中国ではどうなのか。

中国の「急急如律令

中国では古代限りの一過性のブームだったのだろうか。
例えば次の頁を見ていただきたい。

f:id:pldb:20210809232132j:plain
熊倉隆敏『ネクログ(2)』講談社 2011 p.68

『ネクログ』にはそもそも「急急如律令」がない。全巻(4巻)通して一度も確認できなかった。
加えて、高位の道士であればそもそも詠唱すらしない。

f:id:pldb:20210809232212j:plain
熊倉隆敏『ネクログ(2)』講談社 2011 p.210

年代や舞台はボカされているが、「清朝末期よりは民国初期の感じ」(2巻あとがき)らしい。
『ネクログ』ほど考証豊かな作品においても、「急急如律令」が出ないのは自然に見える。

もう一つ、中国を舞台にした漫画がある。

f:id:pldb:20210809221653p:plain
久正人グレイトフルデッド(上)』講談社 2014(2014)p.74-75

清朝末期、上海でのキョンシー退治が描かれている。
気になるのは「喼急如律令」の「喼」ではなかろうか。こちらは日本語ではなく中国語である。

「中国語大辞典」*3 には「喼」(jí)自体の説明はないので、前の「急」(jí)と同義と考えられる。
代わりに語彙のみ記載されており、一例としては下記のようなものである。

[喼紙] jízhǐ [名] 方 かんしゃく玉; 広

p.1426

これに限らず全ての語彙は「方言」「広東語」で占められている。おそらく中国において標準語ではないだろう。
『「喼急如律令」考』 *4 では、次のような考察が展開されている。

  • 中世以降の日本で「喼急如律令」が多く見つかる(古代には見られない)
  • 沖縄の呪符には日本伝来の「喼急如律令」が多く含まれる
  • 「喼急如律令」自体が日本で考案されたとは考えづらい(朝鮮の呪句から大陸発祥かもしれない)

発祥は明らかではないが、仮に広東語の「喼」から中国南方としよう。
漫画のように上海で使われたとしても不自然ではない。かなり微妙なところを突いているように思える。

そもそも「律令」とは?

律令」が鬼であるとする説明がある。

「大漢和辭典」

〖如律令〗 リツレイノゴトシ 詔書檄文、或は符呪の末尾に用ひる語。法律命令の違背すべからざる義。又、律令は雷邊に居る捷鬼で、其の疾速を要する義から用ひる。

p. 829

「中国語大辞典」

[急急] jíjí 〔形〕(非常に)急ぐさま,焦るさま,慌てるさま
[〜如律令] 〔成〕 至急に命令に従うこと; もと漢代の公文用語。後に道士が呪文の終わりに用いた.速やかに去れの意; '律令'は足の速い鬼神の名とされる。

p.1423

日本人である私としては奇妙に映る。「大宝律令」のように「律令」は政治用語で、それが鬼に由来するとは考えがたい。
『冥界の道敎的神格 : 「急急如律令」をめぐって』 *5 ではこの説に対する懐疑論も引用されている。

南宋の王琳『野客叢書』巻十二でも、李匡父の説を取り上げて、「雷邊捷鬼の説は近世の雑書に出ているが、西漢にはそのような説は聞いたことがなく、漢人が如律令という場合は、律令の如く速く施行せよというのであって、いわゆる捷鬼なるものを知っているはずがない、この語は巫史に近く不経なること甚だしい」と反駁している。

p.76

律令を迅速に施行せよ」→「敏捷な鬼に例える」→「鬼が起源であった(後付け)」と歴史修正された話に見える。
ただ、面白いのは言葉の取りようで印象がだいぶ変わることだ。「急急如律令」=「捷鬼のように急げ」であれば呪言らしい。
格式ばった「律令」の違和感が氷解したように思える。

まとめ

あれこれと触れたが、要はどの漫画も「ありえる」ラインなのが素晴らしい。
冒頭の『瀧夜叉姫』は安倍晴明がクローズアップされる陰陽師の世界観で、「急急如律令」が普及しているのは想像に難くない。
一方で、そもそも「急急如律令」を使わない『ネクログ』の確かさも素晴らしく、『グレイトフルデッド』のように「喼」を用いる中国テイストもまた素晴らしい。
調べればキリのない世界ではあるが、まずはここまでにしておきたい。





https://myokoym.net/aozorasearch/search?word=律令

*1:諸橋轍次「大漢和辭典 縮寫版 巻四」大修館書店 1967(1958)

*2:水口幹記「〈術数文化〉という用語の可能性について」、『前近代東アジアにおける〈術数文化〉』勉誠出版

*3:大東文化大学中国語大辞典編纂室・編「中国語大辞典 上 A--LUO」角川書店

*4:http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/2370/1/No5p1-18.pdf

*5:https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/155510/1/jor062_1_75.pdf