来自北東、昴宿星団

北東より来たれ、プレアデス

仁右衛門島へ(2020-03-16)


 序

日帰りで 仁右衛門島 まで行ってきた

行きの [立川駅 -> 東京駅] と、帰りの [久里浜駅 -> 立川駅] に見所はない

それ以外の写真のみ掲載する

旅程

東京駅 -> 安房鴨川駅

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東京駅

東京駅八重洲

ここから道路を一またぎすれば、京成バスの高速バス乗り場がある

 

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アクアライン

東京湾を乗り越え、木更津に上陸する

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安房鴨川駅(バス停)

安房鴨川駅

快走したバスとの別れ

安房鴨川駅 -> 太海

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安房鴨川駅(ホーム)

安房鴨川駅から太海駅まではたった一駅だが、発車間隔に空きがある

ホームでしばし待つことに

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太海

就航しているらしい

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太海

熱い島推し...

太海駅 -> 仁右衛門島

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太海(頭上注意)

スプレーによるエッジの利いた警告

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太海(案内)

鰹節の匂いがする

この後ろには鰹節問屋があった

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太海(島付近)

車道の狭さやら、建物の密集具合やら、海岸沿いの漁具やら、とにかく情報量が多い

 

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太海(海岸沿い)

途中、行きすぎて引き返す

渡場への入口は分かりづらい

 

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渡場

欠航?駅では就航だったはずでは...

と思って切符売り場を見つめていると小舟が迫ってきた

普段は手漕ぎ舟だが、今日は波があるためモーターとのこと

特に出港時間のようなものもなく、そのまま乗り込む 

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仁右衛門島(入口)

渡しの支払いは入口付近で行う

以降、掲載した写真以外にも見所はあるが、未訪の方に配慮して全ては載せないこととした

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仁右衛門島(西)

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仁右衛門島(道)

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仁右衛門島(強風跡)

島内は小道伝いに移動する

ただ歩くだけなら15-20分程度で一周できる

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仁右衛門島(北)

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仁右衛門島(弁財天)

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仁右衛門島(神楽岩)

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仁右衛門島(南)

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仁右衛門島岩礁

岩礁の波の音が良い

海の存在感が強い

太海駅 -> 浜金谷駅 -> 金谷フェリー -> 久里浜

館山方面に内房線で移動する

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太海駅(ホーム)

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浜金谷駅

この辺から強風を感じるようになる

 

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金谷フェリー(案内)

強風により13:40欠航の可能性があるとアナウンスされるが、風が収まり乗船できることに

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フェリー(後尾)

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フェリー(前方船窓)

三浦海岸が見える

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フェリー(曇天:晴天=8:2)

久里浜

 

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久里浜(平作川)

久里浜では至る所に昆布が干されていた

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久里浜駅周辺(鳩)

鳩は良いものだ

 

島のこと

まず島の名前が珍しい

概して島の名前はその特徴に由来している

大きな「大島」、硫黄のある「硫黄島」、鳥がいる「鳥島」、そこに来ると「仁右衛門」さんの「仁右衛門島」というのは珍しいことだ

 

次に、陸との距離が近い

陸続きになったかつての島を「陸繋島(りくけいとう)」と呼ぶそうだが、少しでも隆起すれば房総半島の一部になりそうなくらい、岬との距離が近い

 

こうした立地のゆえだろうか、有人島として様々な史跡が残っている

それも徐福伝説のようなフワッとした類のものではなく、どうやら本当に来島したのだろうと思えるものが多い

とはいえ、岩礁の美しさは見事で、帰ってみればそちらの印象が強いと感じた

 

最後に、仁右衛門島太海との関係だ

googleで「仁右衛門島」を検索すると「仁右衛門島 心霊」が候補に出ると思う

実際にそれで見ても根拠ははっきりしないが、手元の資料によると、過去に島の所有権を巡って争い、凄惨な事態を引き起こしている*1

そのため、島と太海とは仲が悪いのではと邪推していたが、胸のうちはどうあれ、お互いにとって欠かせない存在ではなかろうかと、立ち並ぶ旅館を見て思った

 

しかし、 太海も仁右衛門島も栄えていない

太海にはコンビニさえなく、新築らしい建物はほとんどない。島内の入口さえ廃れるに任せている

自分みたいな繁華街を嫌う人間には好ましいのだが、ついつい先行きを案じてしまう

 

*1:宮本常一宮本常一全集4 日本の離島 第1集』未来社 2005(1969) p.67-68

「千葉県安房郡江見町太海の沖に仁右衛門島というのがある。波太(はぶと)島ともいっている。周囲が三〇丁ほどの島で、島主を平野仁右衛門とよび、源頼朝が石橋山で兵をあげ、敗れて安房にのがれたとき、島主にたすけられたので、頼朝は漁業運上の徴収権を島主に与えたといわれている。平野家はこの島を持ち、またあしか島から天面までの間の八手網漁と磯根あわびの漁業権をもっていて、八手網役永五貫文、鮑に対し運上永四九五八貫文を納めていた。ところが文久二年に、付近の漁民が元和年間の水名帳を証拠に、仁右衛門は頼朝とは関係なく、摂州から移住したもので、村方が島を貸してやったもので、島を独占すべきではないと訴えて出た。そこで平野方は元亀・天正の古文書をもとにして争い、平野側に有利であったが、小原村の宮崎文治が中にたち、平野側から村方へ四〇両差し出すことにして解決した。ところがその後、村方はそれでおさまらず明治二年再び訴訟をおこしたが敗訴になり、村方の代表善右衛門は責任を負うて自殺した。善右衛門の子三人は父のうらみをはらすため、風雨の夜島にわたって、平野家五人の者を殺傷した。そして身をひそめていたが、明治五年自首して出、それぞれ処刑せられた。それから大正一五年まで、島方と村方の者の争いがつづいたのである」